末の松山

22日夜は中日新聞社さんと中日歌人会の懇親会。
隣席になった大平修文さんから興味深い話を聞いた。
百人一首の一首、「ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山浪こさじとは」の「末の松山」を越す浪というのは貞観地震の時の津波のことであるという話である。
帰ってから調べると作者の清原元輔は西暦908から990の人で、この歌は後拾遺集に入っている。これには有名な本歌がある。「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなん」読人知らず(古今集・巻二十・東歌)である。
貞観地震は869年、古今集は913年頃の成立だから、年代的に津波の数十年後に歌が詠まれたと推測できる。この東歌以降、末の松山を波が越えるというのは「ありえないこと」の象徴となり、恋歌において二人の絆(契り)の確かさを保証するものとなるのだが、清原の一首ですでに「浪こさじ・とは」となっているように、逆に男女の契りの「あやうさ」の象徴になってゆくのが興味深い。

思ひ出でよ末の松山すゑまでも波こさじとは契らざりきや         藤原定家(拾遺愚草)

松山とちぎりし人はつれなくて袖越す浪に残る月影                 同上(新古今)

頼めおきしそのいひ事やあだなりし浪こえぬべき末の松山             西行(山家集)

ちぎりきなさてやはたのむ末の松まつにいく夜の波はこえつつ      藤原雅経(明日香井集)

代々かけて波こさじとは契るともいさや心の末の松山              二条為氏(新後撰)

とこんな感じに。男女においては「末の松山を波が越える」ようなことがやすやすと起きてしまうわけである。涙と波、松と「待つ」が縁語や掛詞になるため、恋歌において格好の歌枕だったことがわかる。
そして今回、東歌成立以来千百数十年ぶりに末の松山に大津波が迫ったのだが、やはり越えることはなかったようだ。
男女の仲の象徴である歌枕より、実在の「末の松山」は堅牢だったわけだ。

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